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2012年1月26日木曜日

2月28日、「本社の国のイメージと商品ブランド力」

主宰するローカリゼーションマップ研究会で下記のWS形式の勉強会を行います。 UXD Initiative でもご案内しておきます。

<ここから>

2月25日に「アーカイブの時代変遷と地域差異」をテーマにした勉強会を実施しますが、28日番外編を行うことにしました。いつものように講師をお呼びするのではなくワークショップ形式で議論する場にします。

参加希望者は、anzai.hiroyuki(アットマーク)gmail.com かt2taro(アットーマーク)tn-design.com までお知らせください。議論に積極的に参加していただける方、本研究会の今後の活動に貢献していただける方、大歓迎です。内容に一部変更になる可能性がありますが、その際は、ご了承ください。場所はいつもと同じく、六本木アクシスビル内のJIDA事務局(http://www.jida.or.jp/outline/)です。

2月28日(火)18:30-21:00 「本社の国のイメージと商品ブランド力」

グローバルビジネスになればなるほど本社の場所は関係ないと言われがちです。しかし、はたしてそうでしょうか?アップルはアメリカ、ネスレはスイス、メルセデスはドイツ・・・というように会社の国のイメージと商品ブランドは緊密な関係にあります。その一方、HTCやエイサーのように、本社の場所を知っている人は知っているけれど、さほど国のイメージが効いていないと思われる事例も身近にあります。また電子機器だけでなく、キッコーマンの醤油にみるように、日本食のためではなく各地での料理に合う調味料として販売する戦略事例も少なくありません。

ここの一つの調査報告書があります。昨年3月13日以降に世界9か国で日本や商品のイメージに対するリサーチを定期的に実施した結果です。これをみると、商品カテゴリーによって津波や震災後の原発事故により信頼性がさほど変化しないものと低下しているものに分かれます。あるいは生産場所と本社の場所へのイメージと商品イメージをみると、各国の日本へのイメージとは当該国の自国イメージとの釣り合いのもとで構成されているかもしれないと推察される結果があります。

本勉強会では、上記の報告書にあるデータを基にワークショップ形式で「自分の商品の見られ方」について議論していきたいと考えています。

参加定員数:15名
参加費:1000円(飲み物や軽食を用意します)

2011年11月9日水曜日

第5回UXD initiative研究会 |イタリアンライフを題材にした ローカリゼーション・ワークショップ




■開催概要

日時:2011年11月28日(月曜日) 18時00分開場、18時30分~20時30分
開催場所:株式会社コンセント 会議室(JR恵比寿駅より徒歩5分)
東京都渋谷区恵比寿南1丁目20番6号 第21荒井ビル
参加費:無料
定員: 20人(先着順)
申し込み: こくちーずよりお申し込みください
懇親会場所:未定(決定次第掲載します)
懇親会費:4,000円(税込)
※終了後、懇親会を予定しております。
懇親会の会場を押さえる都合上、懇親会への参加を予約された方は、ご欠席される場合でも会費をいただきますのでご了承ください。


■プログラム概要

この7月に「デザインと食を結ぶ感性とロジック」を開催し、ローカリゼーション視点の使い方について研究会を開催しました。製品は必ずしもローカライズされる必要はありませんが、ローカリゼーションが必要かどうかは常に考えておこないといけません。そこで何を考慮しないといけないかについて議論しました。

今回は7月の研究会を踏まえ、ローカリゼーションをテーマにワークショップを実施します。異文化の理解について一緒に考えながら、異なったコンテクストに適した製品デザインを試みたいと思います

題材としてイタリアの生活を取り上げます。参加の前に必ず、以下のブログ記事をお読みください。ワークショップで扱う対象が食材ということではなく、あくまでも「異文化理解→製品開発」の一つのヒントとして読んでください。

http://uxd-initiative.blogspot.com/2011_10_01_archive.html

*7月に研究会に参加された方に限らず、まったく新しい方の参加も歓迎です。


■企画担当SIGリーダー

長谷川敦士(株式会社コンセント)
安西洋之(モバイルクルーズ株式会社)

■問い合わせ先

長谷川敦士 <hase@concentinc.jp>
安西洋之<anzai.hiroyuki@gmail.com>

2011年10月16日日曜日

七味オイルの商品開発ストーリー




 来月、この研究会でぼくの関わっている七味オイルの開発ストーリーをワークショップの素材に使うことになりました。そこで3年ほど前に書いた以下の文章を、やや長いですが、ここに掲載しておきます。研究会の告知は追って行います。

<ここから>

 2008年7月下旬、私たちは長野の善光寺を散歩しました。既に日は落ちかかり、人も少ない、門前の商店も閉まっている。そんな時刻です。八幡屋礒五郎社長の室賀さんが、歩きながら39ある宿坊とその仕組みを説明してくれます。デル・ポンテ社長のアレキサンダーは20年もの昔、一人で半年ほど日本の各地を旅して回った自分の若き姿を遠くに見つめ、卍が寺を意味することを13歳の娘に教えます。同時に、都内の昔ながらの家に下宿し、日本人以外の付き合いを遮断しながら、冷える畳に正座してひたすら日本の哲学の本を読んだ日々を思い出します。

室賀さんは善光寺の次に、参勤交代時に大名が宿泊したという元旅館に案内してくれました。道に面したファサードは大正時代のアール・デコ様式です。奥には数寄屋造りの和室があります。ここでイタリア・フランス・日本の各料理がミックスした懐石料理を頂きました。西洋と日本の美味が実に自然に表現されています。

異文化交流が料理の世界ではスタンダードであることを今更ながらに再認識しました。マネージャーは、フランスのリヨンでコックとして働き、東京のヌーヴェル・キュイジーヌのレストランに長くいた方です。「フランス料理では20年も前から日本の蕎麦を試してきた」「私自身もオリーブオイルには七味唐辛子が合うと思い、2-3年前、自分で調合して試したことがある」というマネージャーの話しを聞きながら、今回の七味オイルのプロジェクトが料理の世界の文脈にしっかりと嵌っていることを私は確信しました。


アレキサンダーとの出会い

 私がアレキサンダー・フォン・エルポンスと出会ったのは、1993年冬です。彼はミュンヘン大学で哲学と日本学を勉強していたのですが母親が逝去。トスカーナの丘にある大きな邸宅と広い農園を遺産として継ぎました。ある日、彼と私の共通の友人から、その頃住んでいたトリノの自宅で一本の電話を受け取りました。

「学究肌のドイツ人がオリーブ農園を持っているんだけど、日本文化に関心が強く、オリーブオイルを使ったビジネスで日本と関係を築いていきたいと言うんだ。一度、会って話を聞いてくれないか?」

これが全てのはじまりでした。彼はお洒落なギフトボックスのデザイン作業を開始していました。ベルギーの大学でも法学部の学生だった彼に、グラフィックデザインの才能がこれほどにあるとは想像していなかった私は、驚きました。そして、香はまろやかで味は柔らかくなめらかでありキリッとしています。「この味とセンスなら日本にも紹介できる」と考え、日本のインポーターを開拓していきました。



彼はどう育ったのか?

時をさらに遡りましょう。幼少の頃よりネクタイにジャケットで自宅の夕食の席につく環境で育ち、イエズス会の厳しい教育の高校生活を終えたアレキサンダーは外交官の道を望み、ルーヴァンカトリック大学では法学部へ進みます。しかしながら、教養課程で哲学に触れた彼は、法律に魅力を感じなくなっていきます。

母親に「法学部を卒業すればあとは何を勉強しても良い」と言われた彼は、法学部に在籍しながらハイデッガーとニーチェの勉強を進めます。そこでハイデッガーと交流のあった九鬼周造に興味を抱き、『「いき」の構造』に出会います。禅の思想にも関心を持ち、ルーヴァンカトリック大学の教授に、ミュンヘン大学の日本学の教授を紹介されました。ドイツ人の父親とベルギー人の母親の間に生まれた彼は、スイスで生まれベルギーで育ったのですが、ここでまったく新しい文化と遭遇したわけです。

日本学を勉強しはじめ、彼の生き方に変化が生じます。合理的でスピードがすべてという効率主義に疑問を抱きはじめたのです。きっかけは漢字の学習です。ここで効率以外の価値があることを見出したのです。アルファベットからすれば複雑な形状の漢字は、覚えるにも書くにも時間を要します。しかし、表現された漢字は沢山の意味を同時に伝えることが可能です。

大きな驚きがここにありました。より広い構図からものを考える拠点を見出したと言ってよいでしょう。また漢字にある象形文字が、牛、馬、草、竹など農業に関係のあることに気づき、日常の生活からものを考える世界にも惹かれていきます。漢字を上手く書くために、左利きから右利きに変えました。


多様で多種の異文化との出会い

異文化との出会いが彼を変えたのは、日本だけではありません。イタリアもそうです。87年、それまでも頻繁にトスカーナを訪れていた彼の母親が、高級保養地として名高いモンテカティーニに別荘を購入しました。イタリアの有名なTVジャーナリストの所有だった邸宅です。それまで以上に、ここを訪れるようになった彼は、イタリアのライフスタイルにあるプラグマティズムを知るようになります。

フランスやプロイセンで貴族の称号を得ていた家系は、15世紀のイタリアのデル・ポンテ家に源流があります。5世紀以上の時を経て、彼は自分の血にもともとあったイタリア文化を発見したのです。そうなると、自分探しのための哲学がなんとなく色あせて見えてきます。アレキサンダーが哲学の試験勉強をしているとき、92年に結婚するベルギー人のファビエンヌが、オリーブの収穫を一人で仕切ることもありました。こうした姿も、書籍から学ぶことが中心だった彼の人生観を大きく変えていったのです。グルグルと回転しながら進む彼の思考が、じょじょに直線的になっていきました。


日本式の露天風呂を作る

それから、自分で何でも作るようになります。オリーブオイルのギフトボックスのデザイン(七味オイルのボックスもそうです)、後述する20トン近い大理石を使った和式露天風呂、林の中に飼っている豚から作る生ハム。これらは彼の「自作」のほんの一例です。子供の頃、ベルギーのお祖父さんの別荘で働く職人たちの仕事を熱心に眺めていた彼らしい成果です。

しかし、とても慎重な男であることは変わりません。「自分が知っていることは分かっているけれど、知らないことは知らない」と言い、1999年、トスカーナに家族を残してブリュッセル自由大学でMBAを取りました。ビジネスの世界のことも、本で事前に分かることは全て分かっていた方が良いと考えたのでしょう。当然のことながら、オリーブオイルの味に対しても同様です。彼はトスカーナのオリーブオイルの質をテスティングする資格を所有していますが、この資格も仕事の合間を縫いながら研修に通って取得しました。


いい加減な商品企画にはのらない

日本とのビジネスも軌道にのってきた頃、ある会社から、「オリーブオイルの質は問わないから」ペペロンチーノやハーブを入れたオリーブオイルを作ってくれないかとのオファーが寄せられました。アレキサンダーは、こう語りました。

「オリーブオイルの質が生きてこそ、デル・ポンテの製品と言える。そのようなリクエストをする会社は真面目とは思えないから、取引したくない」

そのとき、彼はエキストラヴァージンに何か別のものを入れることに否定的であったわけではありません。ペペロンチーノのオイルは昔からあり、それに批判的であったわけでもありません。しかも、日本の何らかの味との融合に関心はあったのです。しかし、その相手が何であればいいか、その具体的なアイデアはもっていませんでした。ただ、何か新しいコンセプトの商品への意欲は常にありました。


七味オイルのアイデアの誕生

長野県上田市にあるギフト商品会社を経営する石森さんとのおつきあいは10年近くになります。2007年の2月、石森さんから「日本で三大七味唐辛子の一つと言われる善光寺の八幡屋礒五郎さんの七味とオリーブオイルのコラボ商品を企画してみませんか?」と提案がありました。私は、瞬時にこれは面白いと思い、アレキサンダーに伝えました。

彼からも「是非、挑戦してみたい」との即答を得られました。彼は七味唐辛子がどんなものか知っていました。そして、ミックスさせるものが日本の伝統調味料であることにも大きな魅力を感じました。早速、石森さんが試験的に作ったサンプルをテスティングし、「イタリアのペペロンチーノにはない奥深い味だ。しかも、デル・ポンテのエキストラヴァージンオイルの味と香りが十分に生きている!」とアレキサンダーは感嘆します。

ドイツと日本の哲学、イタリア文化、これらが統合され最後の刺激材料だけを待っていた状態だったのかもしれません。280年余続いてきた老舗七味唐辛子と地中海の典型的な調味料であるオリーブオイルの融合、七味オイルというコラボ商品の開発は、こうしてスタートを切りました。


裸の付き合いが実現

モンテカティーニはフィレンツェの西北にあたり車で1時間程度の街です。この街の背後に広がる山の中にアレキサンダーの邸宅と農園があります。ここに7-8人はゆったりと入れる和風露天風呂があります。洗い場もあり、和式の桶など日本から取り寄せました。アレキサンダーとファビエンヌが新婚旅行で日本の温泉地巡りをした思い出が、そのままあります。二人で日本のイメージを思い起こしながら、イタリアの建材を使って作りあげました。

湯の中に体を沈めると水面のはるか向こうには修道院が見えます。しかし、湯は日本を感じさせてくれます。2007年11月、八幡屋礒五郎の室賀さん、石森さん、アレキサンダー、そして私の4人で一緒にこの風呂に入りました。七味オイルのビジネスプランついて思い思いに語り合ったのですが、この和と洋の空気の調合具合が話をとてもスムーズなものにしてくれました。


「和洋折衷」という言葉は、今や若干古臭いイメージがついてまわるような気もするのですが、この七味オイルへの皆さんの反応をみていて、和洋折衷の積極的な意義をつくづく私は感じています。妥協ではなく、お互いが自分の価値をより高めながら距離を縮めあうその姿勢自身が潔く寛容であり、相手方の文化への敬意が表現されます。異なるものを全く入れないことで純粋性を保つ価値観もありますが、あえて違ったものと衝突しながら新たなものを目指す姿勢には、緊張感とスガスガしさが感じられます。この点に七味オイルの新鮮さが凝縮されています。


→関連ブログとして以下

http://milano.metrocs.jp/archives/2093

「インフォグラフィックにみる文化差」(#lmap の勉強会)

ローカリゼーションマップの勉強会のお知らせです。

今回のテーマはUXD Initiative の活動に関心のある方々にも興味のあると思われるので転載しておきます。

<ここから>

参加希望者は、anzai.hiroyuki(アットマーク)gmail.com かt2taro(アットーマーク)tn-design.com までお知らせください。議論に積極的に参加していただける方、本研究会の今後の活動に貢献していただける方、大歓迎です。内容に一部変更になる可能性がありますが、その際は、ご了承ください。場所はいつもと同じく、六本木アクシスビル内のJIDA事務局(http://www.jida.or.jp/outline/)です。

11月19日(土)16:00-18:00 「インフォグラフィックにみる文化差」

言葉が通じないけどアイコンなら分かるだろうと思う傾向があります。しかし、日本においては現物のコピーを忠実に表現し、欧州では現物のコンセプト を伝えることに注力しようとします。そうすると例えば、日本のデザイナーが作ったクルマのワイパーのアイコンが欧州においては扇子にしか見えなかったとい うエピソードがあります。このように、あるモノに対するイメージとその表現は文化によって違います。したがって、アイコンには言葉での説明の併記が望まし いという議論が生まれるわけです。

今、インフォグラフィックの重要性が盛んに語られます。多くの言葉と情報があふれるなかで、一定品質の情報を如何に共有するかは大きな課題です。情 報は伝達されてはじめて意味があります。しかし、コミュニケーションに100%はあり得ません。でも100%を目指す態度は必要です。そのためにどうすれ ば良いのでしょうか?

その目標実現の一つとしてインフォグラフィックが大切な役割を果たせるかどうか。これを今回の勉強会のテーマにします。講師は、セキュリティシステ ムのエキスパートである石垣陽さん。人気ブログ「デザイン思考ー無限の発想を生み出す方法」の筆者です。このブログをちょっとでも読めば、話しを直接聞い てみたいと思うはず・・・。

参加定員数:20名
参加費:1500円(18:00以降の懇親会参加費を含む)

講師:石垣 陽(いしがき よう)

1976年東京生まれ。
デザイン・科学・アート・工学の界面に興味を持っています。ブログ「デザイン思考 / www.design-thinking.jp」 を運営。電気通信大学大学院修了、多摩美術大学大学院修了、修士(工学・芸術)。大手サービス会社にて10年間、政府認証基盤・遠隔医療・セキュリティシ ステム の研究開発に従事。情報処理学会SPT研究会委員。国際デザインコンペティション、富士通モバイルフォンデザインアワードなどを受賞。

尚、フェイスブックのページ(下記)でもローカリゼーションマップの最新情報を提供していきますので、このページを「いいね!」に入れておいてください現在、1207人の方にフォローいただいています。

http://www.facebook.com/localizationmap

2011年8月27日土曜日

パターン・ランゲージと「経験」「分かる」ということ




今日、第三回研究会の慶応大学の井庭さんのパターン・ランゲージに関するプレゼンをUSTをミラノで見ました。他の作業の手を進めながら見ていたので、すべての声が拾えていないのですが、ここで「経験」と「分かる」ということがキーワードになっていることに興味を覚えました。

実は、第二回研究会のローカリゼーションマップのプレゼンの後の懇親会で、山崎さんに「ぼくの頭のなかでは、パターン・ランゲージとローカリゼーションマップはつながっているんだよ」と言われました。その場で酒を飲みながら、長谷川さんにパターン・ランゲージについて手短に説明を受け、「あっ、これは近そうだ」と直感でぼくも思いました。

そして、「経験」と「分かる」。

先月出版した『「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか』に合わせ、3人の方に対談をお願いしました。そこで、共通の質問をしたのですが、それが「経験」と「分かる」です。『イシューからはじめよ』の著者、安宅和人さんは、こう語りました

「脳神経系で『理解』とは物理的に存在しません。2種類の情報からの信号が1つの神経上で重なり合う現象のことなんです。つまり、複数の情報が何ら かの重なる関係を持つ時、我々は『分かる』という状態になるのです。だから、コンテクストを共有することがものすごく重要なわけですね」

 日常生活において、論理的に繋がる現象が眼前にあることは稀だ。一方で自分の内省と外界を結び付けられないと、分かった気になれない。したがって、「異文化の世界観を現場経験なしに理解することは難しい」と安宅さんは言う。

二人目は比較文学者で詩人の管啓次郎さんは、こう話します

「異文化の理解とは部分的であり、常に再発見があるものです。一瞬一瞬の火花と言ってもいい、知識の印象なんです」

「東北地方の津波被害も、ローカルに伝わる経験が活かされた地域と軽視した地域で明暗が分かれましたよね。また、神戸の震災の経験が東北に役立った場合と、その経験の汎用性に信頼しすぎたためにうまくいかない場合の2つのケースがあるわけです」


そして、最後は東大 i.school のディレクターである田村大さん
「ある土地のことが分かったというのは、住人になりきれることでしょう。そこに住む人が喜ぶ、ワクワクするということが、自分に全人格的にインストールされていないとダメ。ネイティブとしてわかる。学生にも何かやる時には、必ず現場に出かけて何かを感じろと言っています」

それぞれに共通しているのは、経験なしに分かるということはありえない、ということです。この3人の方と「経験主義の罠」については話し合いませんでしたが、「経験しかないんだよ」と言い切った後に、「でもね・・・」と続けたい。そこで考えるべきは、如何に経験のないところから経験値と称すべきポイントに接近できるか、如何に経験の最大利用効率を図るか、如何に他人の経験を自らに移植するか、ということでしょう。

ローカリゼーションマップとの相性でいえば、視点の重要性を強調しているところが、態度として共感でき最初の交差点になります。この交差点、うれしいことに何ブロック先でもいくつかあり、ローカリゼーションマップの視界がさらによくなりそうです。

2011年6月27日月曜日

どれだけの領域にタッチするか?




少々、この場をご無沙汰していたので、近況をかねて書いておきましょう。

先週、日経ビジネスオンラインの「新ローカリゼーションマップ」で米ZIBAの濱口さんのインタビュー記事を掲載したのですが、色々な方からご意見を頂いて思ったのは、案外、「ステレオタイプな分け方をするな!」という批判が聞こえてこなかったことです。記事のなかに、「ステレオタイプに考えるのではなく、差異をみるためのもの」と書いてあったためか、そういう批判が単に聞こえてこなかったのか分かりません。しかし、あえてジャンルわけをして違いを炙り出すことに違和感を抱かない人が、増えているのではないかという気もします。

私が、あの記事で今後の重要テーマとしてみているのは、「共通行動パターンをとる人」(ダイアグラムのN領域)は限定的で、「文化を選択する自由度を享受する人」の増加の可能性です。例えば、より定着すればするほどソーシャルメディアをやっていても同じ感覚ということはあり得ず、ソーシャルメディア内の区分けが広がるはずで、だからこそソーシャルメディアが生活の深いレイヤーに届くと考えるのが妥当だと思います。このことを、先週、私はドバイ空港で読書をしながらつらつら考えていました。

その結果が、岡田暁生「音楽の聴き方」のレビューです。音楽美は語るものではない・・・という言説は、ドイツにおける近代ロマン主義とナショナリズムに起因しているという、なかなか説得性のある論を展開しています。「感性」を考える人たちにとって、とても有益だと思うのでお勧めです。あまり我田引水になってもいけませんが、私は本書を読んで、ローカリゼーションマップの音楽面からのアプローチであると理解しました。文脈に嵌ってこそ音楽は楽しめるというくだりは、デザインに対するローカリゼーションマップの考え方と同じです。

先週土曜日、「米国における日本アニメ」をテーマに勉強会を開催し、読売新聞記者の笹沢教一さんに講師をしてもらいました。結局のところ、米国での日本アニメの売り上げピークは数年前であり、その後は下降線にあるだけでなく、ピーク時にあってさえ日本アニメの比率は数パーセントに過ぎなかった。おういう事実をどう見るべきか、よく考えないといけません。なぜなら、「文脈論」という視点で議論しないとおさまりがつかないことが余りに多いという気がするからです。

今週金曜日、産業技術大学院大学のミニ塾での講演も、これらのエピソードを踏まえながらお話することになるかなと考えています。また、今週土曜日に開催する勉強会ニンテンドーDSが世界で売れる理由」も、DS以外がなぜ売れないのか、その底にローカリゼーションの問題がどう横たわっているのかー例えば、ニンテンドーがDSでローカリゼーションをしないと決めるまでの経験ーなどについて、ゲームジャーナリストの小野憲史さんにお話いただく予定です。

とにかく、領域を広くとらないと、ものごとは見えてこないと思います。色々な尺度を時と場合によって使い分ける術をどう習得するかが課題で、そのために、できるだけ多くの業界の事象を追っていこうと考えています。

リンク

2011年6月2日木曜日

食とデザインに共通するロジックを探る




日本の四季ははっきりしているから、日本人は季節に対して研ぎ澄まされた感覚をもっていると言われますが、本当にそうでしょうか?

シャンソンで枯れ葉に詩情を感じたりするのは、季節感としては、箱根の紅葉を愛でるより劣るということでしょうか。沢山の季語がある、ということを例にあげる人がいます。しかし、日本語にエスキモーほどには白を表現する言葉がないことは、冬の季節感に鈍いということを意味するのでしょうか?日本料理にある甘さに対する語彙の豊富さと、西洋料理にあるスパイスに対する感覚の豊かさを比較することに、どんな意義があるでしょう?

意義はあります。「イシューからはじめよ」で安宅和人さんが書いているように、分析とは比較です。豊富な語彙のありかから、どのエリアに関心が高いのか、あるいは自然環境から関心をもたざるを得ないエリアが何なのかー風の匂いなのか、津波の気配なのかー等が分かります。その意味で、いくつかの対象やエリアを選択し、言葉をリストアップしていくのは、ある地域文化を知るうえでとても有効な作業だと思います。しかし、それを生身の人間の感性の優劣に結びつけるのは乱暴な話です。甘さを知っていることと、スパイシーを知っていることのあいだに優劣なんか、あるはずがありません。

昨日、日経ビジネスオンラインにフランス料理のシェフのインタビュー記事をアップしたのですが、この文章を読んで、「イタリア料理もイタリア国内と国外で違うでしょうけど、日本の寿司の国内と国外の差ほどには違わないでしょう」とコメントくださった方がいて、問題はここだと思いました。イタリア人がイタリアで食べるイタリア料理のレベルが分かるべきである、ということを僕は言いたいのではなく、日本人である自分が寿司についてそう思うなら、外国人も母国にある母国料理と母国以外にある母国料理の差異について同じように感じるであろうと想像しないといけないと言いたいのです。

感性の優劣を前提にしたような判断は一切、捨ててみるべきです。本来、比較すべきものでない要素をスタート地点において話しを展開しようとするから、無理がきて精神論に走る・・・という傾向が顕著になります。「日本のものづくりは負けがこんでいるが、感性は世界でもトップだから、ここで勝負すれば勝てるはず」との台詞は、自分たちの感性を自負する分には一向に構いませんがーそういう言い方はどこの国にもあり、ドイツのロマン主義も、その一つでしょうー、それを、グローバル市場を相手にする大量生産の商品戦略の場に持ち出すべきではない、と考えるのです。

あえて言うならば、明示的ではない説明に慣れているというハイコンテクスト文化ゆえに、周辺情況の解読に神経が行き届きやすい、ということは言えるでしょう。しかし、それであるならば、同じ範疇に入る中国やアラブ文化の人たちに対して、どう自分たちの優位性を示すつもりか?という問いがでてきます。こうしたテーマを、食とデザインを材料に色々と考えてみたいと思います。7月8日(金曜日)に千葉工大で研究会を実施する予定です。詳細は安藤さんから告知されます。

2011年5月25日水曜日

ローカリゼーションマップ研究会の勉強会(お知らせ)

ローカリゼーションマップの勉強会が6月末と7月初めの2回、行われます。下記、詳細です。サブカルチャーのローカリゼーションをアニメとゲームから見てみます。

参加希望者は、anzai.hiroyuki(アットマーク)gmail.com かt2taro(アットーマーク)tn-design.com までお知らせください。場所は、六本木アクシスビル内のJIDA事務局(http://www.jida.or.jp/outline/)です。


6月25日(土)16:00-18:00 「米国で日本アニメは衰退したのか?

日本のアニメが海外市場でイマイチ元気がない、ということが常識のようになりつつあります。あれだけ「少年たちの夢を育んだ」と言われた日本アニメへの注目度が鈍っています。その一方で、北米や欧州、または韓国からも新しいタイプのアニメが出てきています。

そこで、ちょっと考えてみましょう。本当に、過去それだけの影響力をもっていて、そして今、減退傾向にあるのか。あるいは、単に日本が実態以上に浮かれて海外市場の動向を高く見積もっていたのか。いったい、日本のアニメの強さとは何なのか。こういう問いがでてきます。

米国市場における日本アニメの変遷を辿りながら、上記の問いに対する回答を、ローカリゼーションの観点も含めて議論して見つけていこうというのが今 回の勉強会です。講師は読売新聞記者の笹沢教一さんです。科学記者ですが、同時に日米ポップカルチャーのエキスパートです。アニメ映像もみながら、お話し くださいます。尚、震災や原発事故による米国における日本イメージへの影響もテーマになります。

参加定員数:20名
参加費:1500円(18:00以降の懇親会参加費を含む)

講師:笹沢教一(ささざわ きょういち)

読売新聞東京本社科学部記者/デスク。1965年生まれ。


7月2日(土)16:00-18:00 「ニンテンドーDSが世界で売れる理由

今年の2月、日経ビジネスオンラインの連載で「日本のゲームに足りないこと」 という記事を書きました。どこの地域でどのようなゲームが受けるのか。どのような背景がそういう結果を導くのか。今後、ゲームが遊びの世界からビジネスの 世界の重要な要素として「普及」していくにあたり、より必要になる要素は何か。こういう疑問へのヒントをエキスパートにお話してもらいました。

それ以来、本研究会でも一度、このテーマの勉強会をやりたいと考えてきました。ソフトウェア産業のローカリゼーションとい う側面だけでなく、サブカルチャーにおけるローカリゼーションという問題も含みます。そして、ビジネスカルチャーをも変質させていく方向に向かっているわ けです。

そこで、今回は、ゲーム分野のジャーナリストであり、国際テレビゲーム開発者協会(IGDA)日本グローカリゼーション部会・共同世話人をやられ、 ゲーム業界のローカリゼーションのエキスパートである小野憲史さんを講師にお迎えします。ニンテンドーDSの「世界で受けた理由とその課題」など、数々の 事例を含めてお話してもらいます。

参加定員数:20名
参加費:1500円(18:00以降の懇親会参加費を含む)

講師:小野憲史(おのけんじ)

ゲームジャーナリスト 1971年生まれ 関西大学社会学部卒
「ゲーム批評」(マイクロマガジン社)編集長を経て2000年よりフリーのゲームジャーナリストとして活動中。国際テレビゲーム開発者協会(IGDA)日 本 グローカリゼーション部会・共同世話人。共著・執筆協力に「ニンテンドーDSが売れる理由」(秀和システム)「ゲームニクスとは何か」(幻冬舎新書) がある。


「キッコーマンの醤油」が教えてくれること

市場の文化を分かるには、色々なモノやコトからみていかないといけませんが、そのなかでも食は欠かせないアイテムです。昨日、ソムリエの方と話していたのですが、ワインなどのアルコールは、味覚ではなく嗅覚勝負。そして嗅覚は味覚以上に脳に残る、と。そこで、「過去の記憶」が重要になります。もちろん味覚も記憶が左右します。どんなに長野で食べたスイカが美味しくても、トスカーナで食べるスイカが美味しくても、そこには大きな乖離が、実はある・・・ということです。求める「あの美味しさ」が、もともと違うのです。

というわけで、食の記憶は文化のかなり幹を作るはずと考えて良いでしょう。ぼくがわりと頻繁に食や食器の事例を挙げるのは、あなたが自分の生活を振り返って比較しやすいからです。しかし、もう一つ理由があります。UXに関心の高い方たちは、電子デバイスやソフトウェアの分野で「生活」していることが多いため、この文化の根幹のありようと職業上遠い、ということがあります。伝統的な分野にいる人は、グローバルで動きの激しい世界をみることが参考になるし、世界単一商品的な世界にいる人は、ローカルなコンテクストが根を張っている分野で目を開かれます。

そこで、今週から三回連続で日経ビジネスオンラインの「新ローカリゼーションマップ」は食を取り上げました。今日アップしたのが、キッコーマンの醤油です。アジア市場に関する戦略から、次のようなことを書きました。この意味を考えていただけたら、幸いです。

米国では肉料理にマッチする「TERIYAKI」で食文化にブリッジを作り、醤油にまったく縁がなかった市場に入り込むことができた。それに対し て、似たものが沢山ある市場では、カテゴリーが違うように見せる努力をしないといけないのだ。この2つの状況は、対照的な印象を受けるが、マーケットで独自のカテゴリーを構築するという意味では共通している。

 ローカリゼーションとは、現地向けに、単純に仕様や味を合わせればいいということではない。「適合する」という意味は、従来の文脈を読みながら、 枝分かれ的なコンテクストを自ら作り、そこに自分たちの商品のポジションを作り出すことでもある。競争が激化した市場で差別化が難しくなり、イノベーショ ンが求められるという状況と相似である。創造力はいつの世でも必要不可欠なのだ

2011年5月23日月曜日

ワイングラスと障子が物語ること



ぼくのイタリア人の知人がまだ若き頃ーもう50年以上前ー、フィアンセのお宅の夕食に招待されました。初めてです。10人近くの家族が、娘とつきあっている男性を取り囲みます。テーブルには真っ白なテーブルクロスが敷かれ、料理をスタートする準備は万端。そして着席して会話がはじまります。そこで一瞬、緊張した彼は、赤ワインを入れたグラスをふと倒してしまい、白いテーブルクロスに一気に赤い染みが広がりました。その直後、何が起こったでしょうか。なんと、娘の父親が自分のグラスをひょいと倒したのです。もちろん、意図的に。これが彼氏へのOKの合図だったのかもしれません。

わざとグラスを倒す粋な人はそうはいませんが、「ブラボー」とか「楽しませてくれて有難う」とか周囲の人が場を作るのは普通の行為です。だから、グラスを倒した本人もあまり気落ちせずにすみます。だいたい、あんなに安定の悪いワイングラスです。倒して当たり前。ですから、倒して場のムードを崩さないためのシナリオがあるのです。あの繊細で不安定なグラスは、もちろんワインを旨く飲むための合理性がありますが、だからこそ、その合理性と美しさを維持するロジックがあるわけです。

日本のグラスでこのような不安定なグラスはなく、お猪口はこぼし易いけど量が適度・・・というだけではないかもしれませんが、誰かがグラスを倒したら一斉に皆が拭きあい、本人は恐縮しきりというのが日本の一般的な風景です。しかし、その一方で、ちょっと躓いて障子に穴をあけてしまったとき、恐縮はしますが、「まあ、障子だから仕方がない。張りなおせばいいんだから」というロジックがあります。それだけ、障子を通った光が作る空間は柔らかい。守るに値する美と合理性がやはりある。即ち、見るからに脆弱であり、破壊と再生のコストがかかったとしてもーグラスは買い換えるわけですがー、価値があると認められたものは、しっかりとそれを支えるロジックが整備されている、というわけです。

このモノを取り巻くロジックが、なかなか掴みきれないから、「なんだ、そんな壊れやすいもの使って・・・ガラスにみえる樹脂で代用すれば経済的じゃないか」という意見が外から出てきます。しかし、ロジックをもっている人たちは、「この人たち、何言っているの?」と唖然とした顔でみることになります。そして「ああ、この人たち、ぼくたちのこと、何もリサーチしていないのね。やる気ないんだ」と見破り、相手にしなくなります。

市場に投入した第一号の商品が即成功することは考えにくいでしょう。だから、二度目、三度目で成功の確率をあげていかないといけません。それには、市場の人に相手にしてもらえ、質の高いフィードバックがかえってくる必要があります。これが期待学の「期待通り」のレベルが意味するところです。イノベーションによる驚きは、その上のレベルです。そこで、どう山を登るかの戦略をたてないといけないことになります。

2011年5月22日日曜日

β版の文化理解を目指そう!

前回、ローカリゼーションがより重要になっていると書きました。が、それは、必ずしもローカリゼーションを実施する必要性が高まっていると直接的に語っているわけではありません。正確にいうと、ローカリゼーションという観点で市場と商品の間にある距離を測定することなしに、ローカリゼーションをするかしないかの判断をしてはいけない・・・というのがぼくの意見です。そして、ローカリゼーションは市場での成功を保証するものではなく、失点を減らして市場で大きな敗退することを避けるためと考えるのが妥当です。オリンピックなら表彰台に立つこと。F1なら得点すること。サッカーW杯ならリーグ戦を勝ち抜いてトーナメント線に辿りつく。期待学でいうなら「期待通り」。こういうレベルです。

同じ食器というジャンルでも、日本のものを海外に紹介する場合、和食のための食器、洋食のための食器、それぞれにおいてローカリゼーションの判断は違います。当然ながら、西洋の料理を西洋という場で使う食器は、サイズも含めローカライズは必須でしょうー創作料理系での例外はありますがー。和食の食器の場合は、パリのサン・ジェルマンの店ではローカライズすることで価値を失う。だが、同じパリでもデパートのプランタンなら若干のローカライズがビジネス上必要、というさまざまなパターンがあります。

プタンタンのケースを更に広げる次のような例がでてきます。ローカライズすることで、よりグローバル市場に出ることもあり、その一例が中国人が作る寿司です。世界の70%の寿司店は日本人以外によって経営され、おおむね、日本人には好評でなくても、現地の人に受けいられています。

どこにターゲットをおくかで、議論の中身が変わってきます。

さて、冒頭に戻り、ローカリゼーションを語る意味をもう少し述べましょう。ぼくが強調しているのは、ローカリゼーションという視点をもって異文化市場を観察してみようということです。それぞれのプロダクトーサービスも含みますーへのローカリゼーションの期待度をみると、市場の文化傾向が「大雑把」に分かります。自分のモノサシして「大雑把」でよいのです。自分のモノサシがないより、なんとマシなことか!モノサシの精度を問う前に自分のモノサシを手にせよ、ということです。精度は人工知能のように使っているうちにあがります。そのために、まず、やるべきことがあります。各々の製品の文化を自分で整理してみることです。歯ブラシ、ティッシュペーパー、食品ラップ、洗濯機、クルマ、スマートフォン・・・・片っ端から、それぞれの傾向を考えてみるのです。

外国語を学ぶのに、日本語でも興味のないテーマの本を読むより、まず関心のある本に集中すべしといわれます。クルマが好きな人は、クルマを通じて米国、ドイツ、フランス、イタリア、スウェーデンの文化をとうとうと語ります。サッカーの好きな人は、ブラジル、アルゼンチン、スペイン、ドイツ、英国、フランス、イタリア・・・カメルーン!とそれぞれの差異を語ります。発想の起点は、ここにあります。食品ラップは同じ技術をもとに作られ、かなり似たようなフィルムですが、やはり違う。ただもっと印象的なのは、イタリアと日本の大きな違いはフィルムそのものより、カッターの切れ味です。日本のカッターはピシッと切れます。刀のような包丁と西洋料理のナイフー家庭用の話しです。プロの料理人は日本の包丁をもっていることも多いーの切れ味の違いが、サランラップのカッターにも通じているわけです。

以上のような目的を先において、まず製品の文化あるいは世界観をおさえていく。これが最初のステップです。クルマとはどういう文化をもっているのか。サッカーとはどういうスポーツなのか。サッカーと空手は何が違うのか。

2011年5月21日土曜日

ローカリゼーションが重要になったのは?(安西洋之)

山崎さん、安藤さんにお誘いをうけ、このUXD Initiative に参加することになりました安西洋之です。ビジネスプランナーを名乗り、ミラノに住みながら日本との間を行き来しています。このプロジェクトで、ぼくの担当は、文化、ビジネス、ローカリゼーション。どうして、こういう組み合わせなのか、少々ご説明しましょう。

ヨーロッパ企業のブランド戦略を見れば分かるように、ビジネスと文化は密接にリンクしています。生産国そのものの歴史や風土あるいはライフスタイルがブランドの背景にあります。このように文化はビジネス活動の質と利益をあげるために有効であるにも関わらず、日本の企業の動向として「文化は利益に貢献しないお荷物」のような見方を相変わらずしている現象をみます。ビジネスと文化が乖離しているのです。そして、文化を使うとなると、非常に偏った日本文化を取り上げー静的な日本ー、本来、フィットしない大量生産の機能型製品のコンセプトのコアにまで持ち込みます。文化はトッピングで使うという基本を踏まえていません。

一方、文化理解という側面では、文化人類学が第二次世界大戦時に大きく発展しー米国は敵国・日本の文化的分析を行ったが、日本は英語学習さえ禁止された!-、戦後、米国ではビジネス活動に文化人類学を応用しましたが、日本企業においては、つい最近のビジネスエスノグラフィーに至る前まで、あまり積極的ではありませんでした。しかし、文化理解がある理由でビジネス上、必須アイテムになってきています。

ある理由とは、1990年代以降の情報革命が引き起こした情況変化です。それによるローカリゼーションのポジションの変化。ローカリゼーションの対象とは、言語、法適合、人間工学、経営の現地化という側面が強かったのが、1990年代以前です。しかし、’90年代以降、インターネットと電子デバイスの普及により、ユーザーインターフェースによって提示される情報が瞬時に確実に理解できるかどうかが、重要なテーマとして躍り出てきたのです。カーナビの画面にある情報が即、理解できないと人を殺すかもしれない!文化理解は悠長な長期的な課題ではなくなりました。人間工学ーユーザーの平均身長に椅子のサイズを合わせるーにプラスして、認知科学の側面でのローカリゼーションに注目しなければいけないようになったのです。

そして、「人は外見ではなく中身だよね」という台詞が、モノにも適用されるようになりました。黒いボックスの中にあるソフトウェアの質が問われ、ONにならないとウンともスンとも言わない凡庸なボックスも、中身の良さ、特にスマートであればあるほど人を惹きつけるようになったのです。そうすると、逆に、如何にスポーティなクルマであろうと、搭載されているナビのユーザーインターフェースが「アホ!」というロジックから成り立っていると、カタチも「アホ!」に見える心象風景の変化も生みはじめました。

即ち、市場のユーザーの「頭の中」を知らないと、製品が機能しなくなる可能性が高まったのです。「頭の中」とはロジックです。そして、ユーザーが機器を使用するコンテクストが、ロジックのありかを左右します。こうした経緯で文化理解の重みがでてきました。ただ、文化理解というと、アカデミックな静的文化を思う浮かべる人も多いですが、ここで言っている文化理解は「日常世界のロジックを理解する」と同義です。

以上で、ローカリゼーションをどう考えるかの入り口に立ちました。

*1:日経ビジネスオンラインの連載、「ローカリゼーションマップ」の初回と最終回をお読みいただけると、今までの説明がさらによく分かります。また、現在の連載、「新ローカリゼーションマップ」でローカリゼーション事例を隔週でアップデイトしています。

*2:フェイスブックページ「#lmap ローカリゼーションマップ」は、関連事項の情報を紹介しています。