2011年6月2日木曜日

食とデザインに共通するロジックを探る




日本の四季ははっきりしているから、日本人は季節に対して研ぎ澄まされた感覚をもっていると言われますが、本当にそうでしょうか?

シャンソンで枯れ葉に詩情を感じたりするのは、季節感としては、箱根の紅葉を愛でるより劣るということでしょうか。沢山の季語がある、ということを例にあげる人がいます。しかし、日本語にエスキモーほどには白を表現する言葉がないことは、冬の季節感に鈍いということを意味するのでしょうか?日本料理にある甘さに対する語彙の豊富さと、西洋料理にあるスパイスに対する感覚の豊かさを比較することに、どんな意義があるでしょう?

意義はあります。「イシューからはじめよ」で安宅和人さんが書いているように、分析とは比較です。豊富な語彙のありかから、どのエリアに関心が高いのか、あるいは自然環境から関心をもたざるを得ないエリアが何なのかー風の匂いなのか、津波の気配なのかー等が分かります。その意味で、いくつかの対象やエリアを選択し、言葉をリストアップしていくのは、ある地域文化を知るうえでとても有効な作業だと思います。しかし、それを生身の人間の感性の優劣に結びつけるのは乱暴な話です。甘さを知っていることと、スパイシーを知っていることのあいだに優劣なんか、あるはずがありません。

昨日、日経ビジネスオンラインにフランス料理のシェフのインタビュー記事をアップしたのですが、この文章を読んで、「イタリア料理もイタリア国内と国外で違うでしょうけど、日本の寿司の国内と国外の差ほどには違わないでしょう」とコメントくださった方がいて、問題はここだと思いました。イタリア人がイタリアで食べるイタリア料理のレベルが分かるべきである、ということを僕は言いたいのではなく、日本人である自分が寿司についてそう思うなら、外国人も母国にある母国料理と母国以外にある母国料理の差異について同じように感じるであろうと想像しないといけないと言いたいのです。

感性の優劣を前提にしたような判断は一切、捨ててみるべきです。本来、比較すべきものでない要素をスタート地点において話しを展開しようとするから、無理がきて精神論に走る・・・という傾向が顕著になります。「日本のものづくりは負けがこんでいるが、感性は世界でもトップだから、ここで勝負すれば勝てるはず」との台詞は、自分たちの感性を自負する分には一向に構いませんがーそういう言い方はどこの国にもあり、ドイツのロマン主義も、その一つでしょうー、それを、グローバル市場を相手にする大量生産の商品戦略の場に持ち出すべきではない、と考えるのです。

あえて言うならば、明示的ではない説明に慣れているというハイコンテクスト文化ゆえに、周辺情況の解読に神経が行き届きやすい、ということは言えるでしょう。しかし、それであるならば、同じ範疇に入る中国やアラブ文化の人たちに対して、どう自分たちの優位性を示すつもりか?という問いがでてきます。こうしたテーマを、食とデザインを材料に色々と考えてみたいと思います。7月8日(金曜日)に千葉工大で研究会を実施する予定です。詳細は安藤さんから告知されます。

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