2011年6月27日月曜日

どれだけの領域にタッチするか?




少々、この場をご無沙汰していたので、近況をかねて書いておきましょう。

先週、日経ビジネスオンラインの「新ローカリゼーションマップ」で米ZIBAの濱口さんのインタビュー記事を掲載したのですが、色々な方からご意見を頂いて思ったのは、案外、「ステレオタイプな分け方をするな!」という批判が聞こえてこなかったことです。記事のなかに、「ステレオタイプに考えるのではなく、差異をみるためのもの」と書いてあったためか、そういう批判が単に聞こえてこなかったのか分かりません。しかし、あえてジャンルわけをして違いを炙り出すことに違和感を抱かない人が、増えているのではないかという気もします。

私が、あの記事で今後の重要テーマとしてみているのは、「共通行動パターンをとる人」(ダイアグラムのN領域)は限定的で、「文化を選択する自由度を享受する人」の増加の可能性です。例えば、より定着すればするほどソーシャルメディアをやっていても同じ感覚ということはあり得ず、ソーシャルメディア内の区分けが広がるはずで、だからこそソーシャルメディアが生活の深いレイヤーに届くと考えるのが妥当だと思います。このことを、先週、私はドバイ空港で読書をしながらつらつら考えていました。

その結果が、岡田暁生「音楽の聴き方」のレビューです。音楽美は語るものではない・・・という言説は、ドイツにおける近代ロマン主義とナショナリズムに起因しているという、なかなか説得性のある論を展開しています。「感性」を考える人たちにとって、とても有益だと思うのでお勧めです。あまり我田引水になってもいけませんが、私は本書を読んで、ローカリゼーションマップの音楽面からのアプローチであると理解しました。文脈に嵌ってこそ音楽は楽しめるというくだりは、デザインに対するローカリゼーションマップの考え方と同じです。

先週土曜日、「米国における日本アニメ」をテーマに勉強会を開催し、読売新聞記者の笹沢教一さんに講師をしてもらいました。結局のところ、米国での日本アニメの売り上げピークは数年前であり、その後は下降線にあるだけでなく、ピーク時にあってさえ日本アニメの比率は数パーセントに過ぎなかった。おういう事実をどう見るべきか、よく考えないといけません。なぜなら、「文脈論」という視点で議論しないとおさまりがつかないことが余りに多いという気がするからです。

今週金曜日、産業技術大学院大学のミニ塾での講演も、これらのエピソードを踏まえながらお話することになるかなと考えています。また、今週土曜日に開催する勉強会ニンテンドーDSが世界で売れる理由」も、DS以外がなぜ売れないのか、その底にローカリゼーションの問題がどう横たわっているのかー例えば、ニンテンドーがDSでローカリゼーションをしないと決めるまでの経験ーなどについて、ゲームジャーナリストの小野憲史さんにお話いただく予定です。

とにかく、領域を広くとらないと、ものごとは見えてこないと思います。色々な尺度を時と場合によって使い分ける術をどう習得するかが課題で、そのために、できるだけ多くの業界の事象を追っていこうと考えています。

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