2011年8月27日土曜日

パターン・ランゲージと「経験」「分かる」ということ




今日、第三回研究会の慶応大学の井庭さんのパターン・ランゲージに関するプレゼンをUSTをミラノで見ました。他の作業の手を進めながら見ていたので、すべての声が拾えていないのですが、ここで「経験」と「分かる」ということがキーワードになっていることに興味を覚えました。

実は、第二回研究会のローカリゼーションマップのプレゼンの後の懇親会で、山崎さんに「ぼくの頭のなかでは、パターン・ランゲージとローカリゼーションマップはつながっているんだよ」と言われました。その場で酒を飲みながら、長谷川さんにパターン・ランゲージについて手短に説明を受け、「あっ、これは近そうだ」と直感でぼくも思いました。

そして、「経験」と「分かる」。

先月出版した『「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか』に合わせ、3人の方に対談をお願いしました。そこで、共通の質問をしたのですが、それが「経験」と「分かる」です。『イシューからはじめよ』の著者、安宅和人さんは、こう語りました

「脳神経系で『理解』とは物理的に存在しません。2種類の情報からの信号が1つの神経上で重なり合う現象のことなんです。つまり、複数の情報が何ら かの重なる関係を持つ時、我々は『分かる』という状態になるのです。だから、コンテクストを共有することがものすごく重要なわけですね」

 日常生活において、論理的に繋がる現象が眼前にあることは稀だ。一方で自分の内省と外界を結び付けられないと、分かった気になれない。したがって、「異文化の世界観を現場経験なしに理解することは難しい」と安宅さんは言う。

二人目は比較文学者で詩人の管啓次郎さんは、こう話します

「異文化の理解とは部分的であり、常に再発見があるものです。一瞬一瞬の火花と言ってもいい、知識の印象なんです」

「東北地方の津波被害も、ローカルに伝わる経験が活かされた地域と軽視した地域で明暗が分かれましたよね。また、神戸の震災の経験が東北に役立った場合と、その経験の汎用性に信頼しすぎたためにうまくいかない場合の2つのケースがあるわけです」


そして、最後は東大 i.school のディレクターである田村大さん
「ある土地のことが分かったというのは、住人になりきれることでしょう。そこに住む人が喜ぶ、ワクワクするということが、自分に全人格的にインストールされていないとダメ。ネイティブとしてわかる。学生にも何かやる時には、必ず現場に出かけて何かを感じろと言っています」

それぞれに共通しているのは、経験なしに分かるということはありえない、ということです。この3人の方と「経験主義の罠」については話し合いませんでしたが、「経験しかないんだよ」と言い切った後に、「でもね・・・」と続けたい。そこで考えるべきは、如何に経験のないところから経験値と称すべきポイントに接近できるか、如何に経験の最大利用効率を図るか、如何に他人の経験を自らに移植するか、ということでしょう。

ローカリゼーションマップとの相性でいえば、視点の重要性を強調しているところが、態度として共感でき最初の交差点になります。この交差点、うれしいことに何ブロック先でもいくつかあり、ローカリゼーションマップの視界がさらによくなりそうです。

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