2011年5月23日月曜日

ワイングラスと障子が物語ること



ぼくのイタリア人の知人がまだ若き頃ーもう50年以上前ー、フィアンセのお宅の夕食に招待されました。初めてです。10人近くの家族が、娘とつきあっている男性を取り囲みます。テーブルには真っ白なテーブルクロスが敷かれ、料理をスタートする準備は万端。そして着席して会話がはじまります。そこで一瞬、緊張した彼は、赤ワインを入れたグラスをふと倒してしまい、白いテーブルクロスに一気に赤い染みが広がりました。その直後、何が起こったでしょうか。なんと、娘の父親が自分のグラスをひょいと倒したのです。もちろん、意図的に。これが彼氏へのOKの合図だったのかもしれません。

わざとグラスを倒す粋な人はそうはいませんが、「ブラボー」とか「楽しませてくれて有難う」とか周囲の人が場を作るのは普通の行為です。だから、グラスを倒した本人もあまり気落ちせずにすみます。だいたい、あんなに安定の悪いワイングラスです。倒して当たり前。ですから、倒して場のムードを崩さないためのシナリオがあるのです。あの繊細で不安定なグラスは、もちろんワインを旨く飲むための合理性がありますが、だからこそ、その合理性と美しさを維持するロジックがあるわけです。

日本のグラスでこのような不安定なグラスはなく、お猪口はこぼし易いけど量が適度・・・というだけではないかもしれませんが、誰かがグラスを倒したら一斉に皆が拭きあい、本人は恐縮しきりというのが日本の一般的な風景です。しかし、その一方で、ちょっと躓いて障子に穴をあけてしまったとき、恐縮はしますが、「まあ、障子だから仕方がない。張りなおせばいいんだから」というロジックがあります。それだけ、障子を通った光が作る空間は柔らかい。守るに値する美と合理性がやはりある。即ち、見るからに脆弱であり、破壊と再生のコストがかかったとしてもーグラスは買い換えるわけですがー、価値があると認められたものは、しっかりとそれを支えるロジックが整備されている、というわけです。

このモノを取り巻くロジックが、なかなか掴みきれないから、「なんだ、そんな壊れやすいもの使って・・・ガラスにみえる樹脂で代用すれば経済的じゃないか」という意見が外から出てきます。しかし、ロジックをもっている人たちは、「この人たち、何言っているの?」と唖然とした顔でみることになります。そして「ああ、この人たち、ぼくたちのこと、何もリサーチしていないのね。やる気ないんだ」と見破り、相手にしなくなります。

市場に投入した第一号の商品が即成功することは考えにくいでしょう。だから、二度目、三度目で成功の確率をあげていかないといけません。それには、市場の人に相手にしてもらえ、質の高いフィードバックがかえってくる必要があります。これが期待学の「期待通り」のレベルが意味するところです。イノベーションによる驚きは、その上のレベルです。そこで、どう山を登るかの戦略をたてないといけないことになります。

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